想いあい

 22歳春、大学を卒業すると同時に彼女と付き合い始めた。環境の変わり目、人生の過渡期にあって、互いの存在が離れていくのが耐えられず、想い合って付き合い始めた。
 彼は記念日とか、忘れてしまうくらい無頓着だったが、頰を膨らめた彼女から「今日って何の日か知ってる?」なんて聞かれればそれはそれで思い出すしかなくて、ご機嫌取りに海沿いのカフェで高くはないパスタを奢った。彼女は弱いようで強かった。仕事の愚痴はいつも彼が言っていた。彼女は相槌をくれた。それ以上でも以下でもない。求めていたものを与えてくれた。彼女はどうしようもなく凹んだとき、彼に言葉を求めた。全力で彼女を認め、持論を語る彼の言葉を最後まで聞き、納得し、「やっぱり相談してよかった」と言った。二人は動物園や水族館、遊園地にも行った。東京の並ぶことが目的みたいな遊園地より、大阪の大規模な遊園地より、田舎の古びた小さな遊園地が好きだった。アトラクションを楽しむというより、そこにある日常を楽しんだ。売店でチュロスとジュースを買って、子どもたちが嬉々として走り回る光景に幸せを分け与えられていた。彼女は毎回、ジェットコースターを指差し、「そろそろ乗れるようになった?」なんて聞いたが、彼は毎回、観覧車で許してもらった。観覧車が昇る前、不満そうに頰を膨らめている彼女も、昇りきってしまえば不満を忘れ、知っている景色に何度でも感動を覚えた。彼女が愛おしかった。日常が愛おしかった。彼女を全力で愛せた彼は、そんな自分のことを愛することができた。彼女が彼の存在を補強するように、彼は、彼女といることで自信を持つことができた。
 彼の方が僅かに早く起床した。横で彼女が寝ている。髪や頰にそっと触れたくなる。触れてしまえば起きてしまうだろうか。冬の休日、朝。結局彼女を起こしてしまったが、布団からは出られない二人。ふざけ合う。お互いを押しあって布団の隅へ追いやり、体温のいない布団の冷たさで攻撃を与え合って笑った。彼女は毎日しっかり弁当を作った。ほとんどが夕飯の残りを詰めたものだったけど、おいしくて温かみがあった。彼は、「残り物じゃなくてさ」なんて文句を言ったが、残り物だって彼女の作ってくれたその弁当だ。嬉しいことには変わりなかった。
 時間だけが過ぎて、互いにわがままになった。「言いたいことが言えている」なんて言い訳に甘えた。言いたくないことが出来て、心を探り合って、面倒くさくなった。彼はそれを全部彼女のせいにした。小さな幸せが積み重なって、時間を掛けて大きな幸せになったはずなのに、軋みだして、脆くなってから、壊れてしまうのに時間は掛からなかった。どんな素直な言葉だって今ならば言えるのに、と彼は思ったが、もう遅い。
 寝ても覚めても変わらない現実。今日だけでも、一瞬でも時間を戻せないだろうかと、非現実的なことを思う。それが現実的でないと解っているから、もう、紛れてくれるのなら、何だってよかったし、誰だってよかった。それでも当然彼は、汚し合うだけの相手と満たし合いを繰り返しても、紛れることはなかった。彼女を埋められるわけではないことは分かっている。これが間違っていることくらい言うまでもないと理解している。時間が解決すると言うが、瞬きをするだけでも永遠みたいに長い中、時間が経過してもその時間に馴染めないのなら、巻き戻して全て無かったことにしてしまえば楽になれるとも思うが、忘れてしまいたくもないと思う矛盾も認める。
 幸せな日々に交わした約束は嘘になってしまった。どれだけ想っていても彼女は戻らないと解っている。だから今日も彼はひとり、ふざけあった布団にくるまり、部屋の明かりを消して、朝を待つ。

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